2、我はダルゲを名乗れるものと

  以下はある男の妄想の物語である。    
  もちろん彼には、妄想と現実の区別は付かない。      
  彼に対して、それは妄想だと断言できる方があれば、喜んで彼にご紹介しよう。     た
  だ、これだけは一言お断りをしておく。ひとしきりあなたと議論を戦わせたところで、彼はこう
  いうに違いない。「……それで、今のあなたのお話も、私の妄想だと仰るのですね……」と 
  ……      

  闇の中、遠くから聞こえる、汽車の汽笛。     
  徐々に近づいてくる走行音。    
  そう、賢治の世界への旅は、いつも夜汽車の汽笛から始まる。        
  やがてその音は、耳を聾さんばかりに大きくなり、汽笛一声。そして静寂。     
  どこかから、かすかなかすかな明かりが洩れ始め、ゆっくりと……ゆっくりと明るくなる。  
  明かりの中に一人の男が立っているようだ。どこかで見たような……
  いや、間違いないあれは、あの男が、楽聖ベートーベンを気取って畑の中を歩いていたお 
  気に入りのあのポーズだ。     
  山高帽に黒ズボン、黒いコートの襟を立て、表情のわからないあのポーズ……       
  

   プロローグ     

  誰もが、「自分は子供なんだ……」と、意識する前に聞いたあの音楽。

男 わたしたちは、氷砂糖をほしいくらい持たないでも、夢の中では、きれいに透き通った風を
 食べ、ももいろの美しい朝の日光を飲むことができます……できます。  またわたしは夢の
 中で、ひどいぼろぼろの着物が、一番すばらしいびろうどや、羅紗や宝石入りの着物にかわ
 っているのをたびたび見ました……見ました。  
 私たちはそういうきれいな食べ物や着物や、言葉を好きです……すきです。  
 これからのわたしのお話は、わたしが起きてなお見る夢の中の、野原や林や鉄道線路やら 
 で、みんなあの人から、もらってきたのです。ほんとうに、本当に、コンクリートで固められて 
 澱 んだ川のそばを通りかかったり、十一月のビルの谷間に、ふるえながら立ったりします 
 と、もうどうしても目を閉じて、あの人の声を聞きたくてならないのです。ほんとうにもうあの人
 が、私の心の中で叫んでいるようで仕方のないその通りを、これからのお話に仕組んだまで
 です。ですからこれらの中には、私の考えたこともあるでしょうし、また、あの人の言葉もある
 でしょうが、私にはもう、その見分けがよくつきません。なんのことだかわけのわからないとこ
 ろもあるでしょうが、そんなところはわたしに  も、たぶんあの人にも、わけが分からないの
 です。けれどもわたしは、これからの言葉のひとつひとつ、小さな物語の幾切れかが、おしま
 い、私の夢の中でぼんやりと光っているあの人……宮澤賢治を捜す旅の、透き通った、本当
 の時刻表になることを、どんなに、願うか、わかりません……

  男はうつむいたまま帽子を取る。依然として,男の表情は闇に包まれている。
  そしてまた,汽車の走行音……時に小さく、そして大きく。             
  男は、傍らの旅行鞄に腰掛け、舞台の奥を見つめている。 まるで夜汽車の窓から、まっく 
  らな外の景色を見ているように……
         
   T、そしてまた旅の始まり

男 こんなやみよののはらのなかをゆくときは、客車の窓はみんな、水族館の窓にな    
 る。

  それは、独り言のようでもあり、窓の外にいる誰かに向かって話しかけているようでもある。

男 ……あれから何年経ったんでしょう。あのときもわたしは、あの人を捜すために汽車に乗 
 り、ちょうどこんな風に旅を始めました。列車の中はがらがらなのに、わたしの向かいの席に
 は、いつも誰かが腰掛けていて、わたしに向かっていろんな話をしてくれました。そう、ちょう 
 ど今のあなたのように……
 ひょっとしたら、その人たちの中に、あの人が紛れ込んでいたのかもしれない。 わたしの気 
 づかない間に、風のように笑ってわたしのそばを通り過ぎていったのかもしれない。ひどくき 
 まじめで、それでいていたずら好きなあの人は、疲れて眠っているわたしのそばから、忍び笑
 いを残して、去っていったのかもしれない……いずれにしても、わたしはまだ、あの人の影を
 捕まえられない時折どこかの街角で、深い森の中で、木枯らしの吹く草原で、あの人の言葉
 に、あの人の歌声に、あの人の叫びに、あの人の本当の姿に出会えた、今度こそ本当に捕
 まえたと思えたときがありました。しかしその度に、のべたわたしの指の先から、投げかけた
 わたしの言葉の隙間からするりとすりぬけあの人は、言葉も体も、意識さえも届かない彼方 
 の彼方へと飛び去ってしまう、そして、残されたわたしの体の周りを、いってしまったあの人の
 隙間を埋めるかのように、冷たい風が吹き抜ける……何度も何度も何度も、そんなことの繰
 り返し……     

  遠くから風の音がする。     
  男は疲れたような、憑かれたような表情でゆっくりと客席に向き直る。

男 ……あれから、何年経ったんでしょうねぇ。
 もう一度、はじめからやり直すために、最初から旅を始めるために、わたしはここへ
 戻ってきました。そして……あなたに出会った……(客席の全員に、あるいは一人に)あなた
 は……だれですか?もちろんあなたが、あの人……詩人で、童話作家で、教育者で、宗教家
 で、科学者で、そして生涯、ただのデクノボーだったあの人でないことは承知しています。しか
 し、あなたのその姿、微笑み、そしてあなたの使うその言葉は、本当にあの人に、うり二つで
 す。教えて下さい、「Keu vi estas ?」……あなたは、誰ですか?そしてもうひとつ、できること 
 ならわたしに教えて下さい。
 「Keu mi estas ?」……わたしは、誰でしょう?     

  汽車の汽笛大きく。   暗転。         



   U、ダルゲ登場
     
  明るい音楽。舞台も明るくなる。    
  そこにいるのは、中途半端な役者のわたし。コートも帽子もかなぐり捨てて、  
  中途半端な仮面をかぶっている。

男 (厳然として)皆様、本日はお忙しい中、ご来場下さいましてまことにありがとうございま  
 す。芝居の半ばではございますが、この場をお借りして御礼申し上げます。      

  拍手があればしめたもの。

男 エー、ここでひとつ、本日お集まりの皆様方に、質問させていただきます。(きわめて日常 
 的な、それでいてふつうとは違うセリフ)「もうかえろっかなー」と今頭の中でちらっと、脱出経
 路の確認をした人、正直に手を挙げて下さい。

  そうは思っても、なかなか正直に白状しないのが日本人である。

男 わたしの見たところ、今日お集まりのお客様の80%が、開演2分後に「えらいと   ころ 
 に来てしまった」と後悔し、そのうち、50%が眠気を覚え、さらにその25%が実際に眠ってお
 られたのはずなのですが……(誰かを指さし)そう、あなたです。え?眠っていない?……お 
 客さん、この際だからひとつ腹ぁ割って話しましょうや。 いやね、なにも怒って云ってるんじゃ
 ないんだ。わたしだって、自分の芝居が退屈なことくらいわかってますよ。ええ。何しろこの十
 数年間。重い、暗い、つらいと三拍子そろった芝居を、歌えない、踊れない、走れない三重苦
 の役者が演じてきたんだ。悪いと思ってますよ、わたしだって。だからこそ、だからこそ今日 
 は新規まき直し、今まで分厚ーく、舞台と客席を隔てていた壁を取り払って、役者と観客が自
 由に意見を交換できる新しい舞台、革命的な空間、新たなる演劇的コミューンを創造しようと
 躍起になっているんだ。  (目つきが危なくなる)なのに何です、その非協力的な態度は! 
 え?云ってる意味が分からない?……わかりました。これはもうあなたとわたしだけの問題で
 はない、ここにいるみんなの問題だ!   
 
  ただのおちゃらけではない、何か云いたいことがあるのだ。  

男 いいですかみなさん、客席と舞台が一体にならなければ、芸術は生まれない! 「世
 界が全体、幸福にならないうちは、個人の幸福はあり得ない」のです。
  
  おおこれこそは、かの人の説く「農民芸術概論」!
  しかし、なにが云いたいのかこの男は……
  明かりは徐々に、日常からは遠くなる。

男 ……おお朋だちよ いっしょに正しい力を併せ われらのすべての田園と われらのすべ 
 ての生活をひとつの巨きな第四次元の芸術に造りあげようではないか…… 「まづもろとも
 にかがやく宇宙の微塵となりて無方の空にちらばろう言葉は詩であり 動作は舞踊 音は天
 楽 四方は輝く風景画われらに理解ある観衆がありわれらにひとりの恋人がある。巨きな人
 生劇場は時間の軸を移動して不滅の四次の芸術をなす おお朋だちよ 君は行くべく や
 がてはすべて行くであろう」

  ひとり恍惚として、セリフをはき続ける男、しかし、何かに気づく……

男 (愕然として)何なんですかその目は?男の天地、前後左右に冷たい視線。男 何なんだ 
 その目つきは。私たちは仲間じゃないか、友達ではないですか?農学校教師の職を辞して、
 この下根子の小さな小屋に、農業の明日と、芸術を語り合うために、羅須地人協会を設立し
 てこの方、わたくしはみなさんの仲間です、れっきとした農民です。なのに何故、そんな目で 
 わたしを見るんです。

  視線はますます多く、ますます冷たくなる。

男 やめろーっ。やめてくれーっ。そんな目でわたくしを見るのは。あんたたちには、お前らに 
 はわからないのか?、届かないのか?わたくしの理想が、この崇高な思想が。

  視線が男を埋め尽くす。

男 (勢いよく立ち上がり)やめろと云ってるのがわからないのか!この百姓ども!!

  たった一言で、世界が凍ることがある。
  男の顔も凍り付く。
  しかしやがて、ゆっくりと氷は溶け始め、男の表情は仮面とひとつになる。 そう、いつしか仮
  面がしゃべっていた……

男 (客席に向かって淡々と)申し訳ありません。幕間の挨拶のつもりが、いつしか芝居  に 
 逆戻り。やっぱりわたしは、重い、暗い、つらいから抜け出せそうにありませんな。   

  男は、旅行鞄に腰掛け、見えないわたしと向き合う。
  列車の走行音。時に高く、そして低く。

男 わたしが誰かって?あなたとは、もう何度もお会いしているはずですが……はあ、覚えてな
 い。そうですね、こっちだって、あなたのことはなにも知っちゃいない。あなたが誰かなんて聞
 かれたって存じ上げませんよ。ただ何回か、この列車に乗り合わせて、顔を覚えていただけ
 の話でしょう。わたしが誰かに似てる?あなたの捜している人に?わたしはそんな、詩人だと
 か、宗教家なんてご大層なもんじゃありませんよ。誰でもない、ただの旅の役者です。そうい
 えば、あなたの方こそ、わたしの知ってる男によく似ている。
 ね?世の中の人間なんて、そんなもんでしょう。初めて会う人でもね、自分の知ってる誰かと
 重ね合わせて、こいつはあの男に似てるから、たぶんこんなタイプなんだろうって、自分を納
 得させる、納得して安心する。違いますか?ハハッ。気にしないで下さい、人ではない男の、
 ただのたわごと、ざれごとですから。
 今の……ですか?へへッ、申し訳ありません、驚いたでしょういきなり泣いたり怒鳴  った 
 り。次の街でやる新しい芝居でね「我はダルゲを名乗れるものと」なーんてわけの分からない
 題名なんですがね、へへっ、何せ重い、暗い、つらいなもんで……
 一人の男の物語です。もうとうに死んじまったんですがね。その男を殺したのが何を
 隠そうそのダルゲ……そうだ、ちょっと見ていただけますか?
 まだ途中までしかできてないんですが、一人でやるのと、誰かに見てもらうのは全然
 違いますからね。
 ね、いいでしょう?ほかに客はいないし、次の駅に着くまでは、まだたっぷり時間も  あるし
 ……へ?わたしの名前ですか?まだ云ってるんですか。んーーーー

  男はゆっくりと立ち上がる。
  その表情を仮面が覆い隠す。

男 そう、わたしの名はダルゲ。宮澤賢治を殺した男……

     走行音高まる。

           V、〈図書館幻想〉

  大きなガラスが割れた。
  冷たい破片が、人々の心と体に降り注ぐ。
  透き通った蒼い光が、あたりを満たす。
   セロの奏でる沈鬱な音楽。

男 おれはやっとの事で十階の床をふんで汗を拭った。
 その天井は途方もなく高かった、全体その天井や壁が灰色の陰影だけでできているのか、 
 冷たい漆喰で堅めあげられているのかわからなかった。
 (そうだ。この巨きな部屋にダルゲがいるんだ。今度こそはあえるんだ)とおれは考 えて一 
 寸胸のどこかが熱くなったか熔けたかのような気がした。
 高さ二丈ばかりの巨きな扉が半分開いていた。おれはするりとはいって行った。    
 室の中はがらんとして冷たく、せいの低いダルゲが手を額にかざして、そこの大きな
 窓から西の空をじっと眺めていた。そしてじっと動かなかった。
 窓の向こうにはくしゃくしゃに縮れた雲が痛々しく白く光っていた。
 ダルゲが俄に冷たいすきとおった声で高く歌い出した。

  西空の
  ちぢれ羊から
  おれの崇敬は照り返され
  (天の海と窓の日覆い)
  おれの崇敬は照り返され

男 おれは空の向こうにある氷河の棒を思っていた。
  ダルゲはまたじっと額に手をかざしたまま動かなかった。
  おれは堪えかねて一足そっちへ進んで叫んだ。
  「白亜系の砂岩の斜層理について」
  ダルゲは振り向いて冷ややかに笑った。

     ガラスの割れる音。
  明るくなる。
 
          W、三文芝居の始まり
 
    男は、胸ポケットから眼鏡を取りだし、書類を読み上げる風……

男 以上が、被害者の記した「ダルゲ」に関する一文です。いや、まだ被害者かどうかも  は
っきりしない人物、宮澤賢治が書き残したものです。
 「ダルゲ」に関する文章は、ほかにも一つ二つ、がいずれも何のことだか、誰のこと  だか
はっきりしない。あの男、いや、失礼。宮澤賢治氏特有の曖昧な文章です。
 タダ、いずれの文章からも、「ダルゲ」なる人物に対する並々ならぬ尊敬の念が感じ  られ
る。あの、秀才、宮澤賢治をして哲人とまで言わしめたこのダルゲなる人物
 相当の知識の持ち主、もしくは稀代の食わせ物だったようですな。いや、もちろん
 このダルゲなる男が実在の人物であればの話しですが……

     書類をしまい込む仕草。

男 しかし、腑に落ちませんなぁ。
 ここにいるこの男(と鞄の方を指さし)この小汚い男が、本当にダルゲなんですか?
 だいたいダルゲってのは、架空の人物でしょう。そりゃモデルはいたかもしれないが、それに
 したってダルゲはおかしいでしょう。
 この男、どこをどう押したって、どっから見たって、生粋の日本人ですよ。
 際だって低い鼻、浅黒い顔、胴よりも遙かに短く、扁平で、おまけに臭い足。
 こんな、判で押したような典型的日本人がダルゲなんてバタ臭い名前な分けないじゃないで 
 すか。もしこいつがダルゲだって言い張るんなら、いいです、今日からわたしのことは、ボギ 
 ーと呼んで下さい…………………………………
 ネッ、おかしいでしょう?わたしだって、この男に負けず劣らず日本人体型です、
 ハゲてます、脂ぎってます、足も臭いです、非常に臭いです。なのに何故……    
 (躊躇しつつ)わかりました。この男はダルゲ。そういうことにしておきましょう。
 しかし百歩譲ってこの男がダルゲであったとしても、もう一つ承服しかねることがあります。 
 宮澤賢治を殺した……とはどういうことですか?
 仮にも作中の人物が作者を殺しただなんて、昨今の探偵小説ならいざ知らず、そんな馬鹿な
 話がありますか?それに、賢治の死因は病死です、肺浸潤、わかりやすく云うならば肺結  
 核。
 ストレプトマイシンの発見以後、大した病気ではなくなりましたが、当時は死病、不治の病でし
 た。そう、賢治は結核で死んだんです。
 そんなこと、少しでも賢治を読んだことのある人間なら誰だって知ってる。
  しかし賢治自身は、この病気のことをひた隠しに隠したようですが。
  そりゃあそうでしょう、当時は家族から一人でも結核患者を出したとなれば、その
  家はもう村八分。自分のために、家族がつらいめにあうのが賢治には堪えられなかっ  た 
 んでしょう。自分は肋膜炎だ、肋膜炎だと、親しい友人にまで本当の病気をうち明けなかった
 のはそういう訳があったからです。
  ことほど左様に、賢治の死因は明らかです。ダルゲだかなんだか知らないが、この男  の 
 付け入る余地はありません、さらに申し上げるならば、よしんばこの男が、宮澤賢  治を殺
 害した犯人であったとしても、賢治がこの世を去ったのは、昭和八年九月二十一日、今から
 六十七年前。遙か昔に時効は成立しております。
  よって、この裁判は無効であります。
 
   裁判だったのか……

男 なあーんて、何で検事であるわたしが、被告を弁護せにゃならんのです。
  あれ。待てよ……。
  もしこの男の云うことが本当なら、こいつがダルゲって名前で、宮澤賢治を殺したん  だと
  したならばです、いったいこの男、いくつなんです、何歳なんですか?
  どう見たって、わたしとおっつかつ、四十は越えていないでしょう。
  ほーらごらんなさい、またひとつボロが出ました。この男は大嘘つき、殺人罪ではな  く、 
  詐欺罪で検挙した方がい  いんじゃないんですか?
  (誰かが何かをつぶやいた)え?何です?
  なぁるほど。それこそが、この男が作中の人物である何よりの証拠である、とそう来ました 
  か。そう来られちゃ、仕方ありませんね。
  わかりました。わたしも伊達に検事をやってるわけじゃない。無理を承知でこの事件、
  見事立件して見せましょう。
  ただし!こうあからさまに申し上げては失礼かもしれませんが……こんなものは茶番    
  だ。こんなものは茶番だ、茶番劇です!(制して)いえ、わかっております裁判官殿。
  決して手抜きはいたしません。ただし、いつもとは違うやり方でやらせていただきま  しょ 
  う。茶番にはおちゃらけで、茶番劇には三文芝居で。そう、作り物、虚像の中にこそむしろ、
  真実は隠されている。

    たぶんここまでで、この役者はかなり疲れている。
  しかし休めない、ここからが本番、芝居の本質、核心である。

男 被告の尋問に移る前に、証人の入廷を求めます。いや、呼び入れる必要はありません。
  証人はわたしです。正確に言うならば、わたしの中に証人はいる。
  証人の名は、宮澤賢治。そう、これ以上はない証人です。
  (妙な節、妙なリズムで語り出す)どうせこうせの茶番劇、話の中の人物が、現にこの場にい
  る以上、そいつを創った創造主、作者が出てきて何悪い。
  どうせこうせの三文芝居、わけの分からぬことばかり、わけの分からぬ芝居なら、ど  うで
  もわけが分かるよう、最後に丸く収まるように、検事が賢治を演じましょう……

   これを云いたいばっかりに、芝居を無理矢理裁判仕立てにした……訳では 
     い。

男 さあさあお立ち会い、ご用とお急ぎでない方はゆっくりと聞いておいで。
  とは申せども、これからお目にかけるのは、ガマの油とちょと違う。
  拙者親方と申すは、お立ち会いにご存じのお方もござりましょうが、と申すものの、外郎売り
  でもありませぬ。
  拙者親方と申すは、現在の関西演劇界になくてはならぬ第十四回岸田戯曲賞受賞作家男
  秋浜悟史。その秋浜   悟史がこれも不思議な因縁かその戯曲「賢治祭」の中で創り出し
  た、摩訶不思議、不思議千万かたじけなしの妙薬、その名も「イタコール」。
  さて、お立ち会い。この「イタコール」の驚き桃の木、驚天動地のその効能は……
  (しんみりと)お立ち会いの中にも、肉親・恋人・親友を不慮の事故、不治の病で
  亡くされた、先に逝ってしまわれた、とお嘆きの方がいらっしゃいましょう。
  いや、皆までおっしゃいますな。わかります、わかりますとも。
  ああ、あの人が、あいつがあの子が、今ここに生きていてくれたなら、達者でいてく  れた
  ならば、ああもしてやりたい、こうもしてやりたい、ああ何故あの時自分は優しい言葉の  
  ひとつもかけてやらなかったのかと、後悔先に立たず、孝行をしたいときには親はなし、の
  たとえ通り、お悔やみの方、お嘆きの方、大勢いらっしゃると思います。ほら、そこのあな 
  た、涙を拭きなさい。どうしました、どなたを亡くされたんです?ほう、結婚したばかりのご主
  人を、それはお気の毒な……それは事故ですか、それともご病気で……え?風邪薬の飲 
  み過ぎ……(あわてて)いや、その話は聞かなかったことにしましょう。そちらのご婦人は、 
  長年連れ添った旦那様を、ああ、それはおつらいでしょう。え、何、最後にひとつだけ云い 
  たいことがあッた?
  そうでしょう、そうでしょうとも。「あなた、わたしのことは心配しないで。これまで一生懸命働
  いたんだから、どうかゆっくりと、休んで下さい……」かなんか云いたかったんでしょ?え?
  違う。「最後まで迷惑かけやがって、この穀潰し」……ヒドイねどうも。と、何故か噺家のよう
  な口調になってしまいましたが、気を取り直して。
  −斯くのごとくに、逝ってしまったあの人、なくなったあの子にもう一度、たった一目でいいか
  ら会ってみたい、声を聞きたい、声をかけてみたいという、全国三千万の遺族の願いを叶 
  えてくれる、恐山のいたこも真っ青、商売あがったりの薬がこの「イタコール」だよお立ち会
  い。
  はいはいはいはい、この線から入っちゃだめですよ。
  さて、ここまで話してもまだお疑いの方、半信半疑の方もいらっしゃる。
  「そんなに云うんならやって見せろ」という声もちらほら聞こえてくる。
  当たり前だ、わたしだってこの目で見るまでは信用できなかった。よござんす。
  今日はご当地六年半ぶりの特別興行。本日お集まりの中から、一人だけ、リクエストにお答
  えして、「イタコール」の効き目をごらん頂きましょう。
  さあ、誰か呼び出してほしい人のある人は手を挙げて。ハイッ、はいそこの顔色の悪いお兄
  さん。云っとくけど、シャーロックホームズなんてのはだめだからね。
  あくまでも実在の人物だよ。それにしてもお兄さん、あんた大丈夫かい?なんかあんたのほ
  うがあっちにイッチマイそうだよ。
  さあ、誰を呼び出そう。え?何だって?もっと大きな声で……え?宮沢喜一?宮沢喜一って
  いつ死んだの?え?違う。宮澤賢治。ほう、宮澤賢治ね。兄さん文学青年だね。
  (ため息)フウ。やっとここまでたどり着いたよ。
  いやいや、何でもない何でもない。
  さあさあお立ち会い、そこな顔色の悪い文学青年のリクエストによりまして、ただいまより、 
  今は亡き天才詩人、宮澤賢治の霊を呼び出してご覧に入れます。

   ポケットから白い錠剤を取り出し、飲み下す。

男 「イタコール」の効能、とくと御覧じろ。エイッ!

  とばかりに印を組む。すると見よ、男の身体からモクモクと白い煙が……
  出ない……男の周りから凄まじい光線が……出ない……天地を揺るがす轟音が……
     これもしない。
  ただかすかな、かすかな音楽とともに、あたりは蒼く染まり、緩やかに時間だけが流れ
     て行く。
  そして、時計が、時を刻み始めた。

          X、ケンジ
 
  音楽は消え、時計の音だけが響く。
  男は少し首を傾げてどこか遠くを見つめている。

男 わたくしという現象は
  仮定された有機交流電灯の
  ひとつの青い照明です
  (あらゆる透明な幽霊の複合体)
  風景やみんなといっしょに
  せわしくせわしく明滅しながら
  いかにもたしかにともりつづける
  因果交流電灯の
  ひとつの青い照明です
  (ひかりはたもち その電灯は失われ)

  音と明かりが、先ほどまでのおちゃらけた雰囲気を、完全に消し去る。
  (エンギハドウナッテイルノダ)
  突然、裁判官の鳴らす槌の音が、大きく響き時計が止まる。

男 (自分の前にいる誰かに気づく)はい、わたくしは、宮澤です。宮澤賢治と申します。

  冴え冴えとして、何か少し、笑っているような表情。

男 わたくしのこと……ですか。
  はい、よろしいですよ。何でもお話しします。ただ、ひとつのことを除いては。
  ありがとうございます。(と椅子に腰をかけ)
  はい、わたくしは宮澤賢治。明治二十九年八月二十七日、岩手県稗貫郡花巻町に生ま  
  れました。父は宮澤政次郎、母はイチ。五人兄弟の長男です。
   小さい頃からあまりからだの強い方ではありませんでした。五歳の時赤痢にかかり、  そ
  れが看病していた父に感染し、そのせいで父は、それ以後胃腸が弱くなり、これはわたくし
  の、父に対する一生の負い目となりました。
  ただ……ただ、家業が質屋だということは、いやでいやで仕方がなかった。
  近在の農民が、まだぬくもりの残っている子供の着物を持ってやってくる。
  それを二束三文で引き取り、その利息や、二倍も三倍もの値で売った儲けで、私たち家族
  は食事をし、着物を着、学校へも通わせてもらいました。
  それは、少しものを考えられるようになってこの方、常にわたくしの負担でありました。重荷
  でありました。それなのに結局、わたくしは生涯、父の庇護から逃れることができなかった。
  一人上京し、法華経信者として国柱会に入会し、トランクいっぱいの原稿を執筆したのも、 
  家族に法華経への改  宗を勧めたのも、農学校教師になったのも、またその職を辞し羅
  須地人協会を設立したのも、東北採石工場にセールスマンとして入職したのもすべて、す 
  べて父の庇護から逃れるための方便でした。
  しかし、結局は徒労でした。東京にも、中央文壇にも、あまつさえ農民にも受け入れられ  
  ず、三十七歳の生涯を終えるまで、ずっと。ずっとわたくしは親がかり、父の手のひらから 
  飛び出すことのできない子供でした。
  ご存じですか、わたくしが最後に母に言った言葉「オレモトウトウ、トウサンニホメラレタモ  
  ナ」お笑いです。お恥ずかしい次第です。
  父はわたくしの最後の願い、「国訳妙法蓮華経を一千部作って下さい」という言葉に頷いて
  こういってくれました。
   「わかった、お前もなかなかえらい」もう頭もあがらない病の床で、正直わたくしはうれしか
  った、そして母に云いました「オレモトウトウ、トウサンニホメラレタモナ」そしてこれが    
  わたしの限界、わたしの最後でした 。
  あ、申し訳ありません。一人で勝手にしゃべってしまって。
  もっとほかのことをお話ししましょうか、わたくしの書いた「銀河鉄道の夜」のこと、
  「春と修羅」のこと、最愛の妹、トシ子のこと……

     そしてまた、誰かが何かをつぶやいた。
  
男 (頷いて)そうですね。今ではもう、わたし自身よりも、みなさんの方がわたくしのことをよく 
 ご存知だ。わたくしが   いつ生まれ、どういう人生を過ごし、どんな人々と  親交を持ち、
 どんな思いで作品を生みだしていったか……     
 原稿用紙の隅の落書きやふと思いついた他愛のないメモ書きの一字一句、どんなペンでど 
 んなインクで、どんなノ  ートに書かれたのかも皆さんは知っている。
 筑摩書房から出ている、校本宮澤賢治全集や新修宮澤賢治全集、そして現在刊行中の新 
 校本宮澤賢治全集を読んでいただけば、わたしの日記以外のすべてのわたくしの言葉、さら
 にわたくしの知らないことまで書いてあります。わたし、宮澤賢治について、わたくし、宮澤賢
 治の語るべきことはもう、何もありません。そう、ただ一つ、あの男のことを除いては……

  検事の質問。賢治への尋問が始まった。

男 はい?日記ですか?いや、それはもうありません。
  死の床にある間も、わたしは日記を書き続けていました。これは、誰にも知られていません
  が、わたしが書き続けてきた膨大な日記は、わたしの死後、わたしといっしょに棺に収めら
  れました。これはわたしが母に頼んでしたことです。
  日記はわたしの独り言です、作品ではありません、もとよりわたしは日記を発表する  つも
  りはありませんでした。ですからわたしの日記は、わたしにしかわからない記号や暗号で書
  かれています。誰が見ても、解読できるものではありません。このことは、弟の清六も知り 
  ません。清六に託したのは、わたくしが書いた原稿だけです。
  もしあの男に日記を渡していたら、わたしの全集は、今の倍の量になってしまったでしょう。
  それを考えると、正直ぞっとします。
  ただ、日記の内容はすべて覚えていますよ。
  こちらに来てから、わたしの脳細胞には限界というのがなくなった。いえ、正確に言えば、脳
  細胞ではありませんね、わたしの意識。こう云った方がいいでしょう。
  もはやじゃまっけで、煩わしい肉体から解放されたわたしの意識は、無限の広がりを  有
  しています。ああ、わたしが生きているときに、今の意識があったなら、もっともっと、美しく、
  崇高な作品を執筆することができたでしょう。
  本当に、人間にこの肉体という邪魔なものがなければ、精神のみで存在することができたな
  ら、そうすればもう言葉はいらない、すばらしいとは思いませんか?
  人間は意識と意識で語りあうことができる。分かり合うことができる。もう病にあえぎ、熱にう
  なされ、恐ろしい幻覚に悩まされることもない。
  そうなればもう、誤解も妬みも嫉みも、人を争いへと導くすべてのものは淘汰され、そこには
  愛と慈しみの心だけが存在する。
  これこそがわたしの理想とするユートピアです、理想郷です、イーハトーブです。
  ただそうなるためには、人間は今まで存在してきた倍の時間、永く苦しい道のりを歩かなけ
  ればならないでしょうしかし、その先にこそ、明るく輝ける未来が待っているのです。(自嘲し
  て)申し訳ありません、横道にそれました。はしゃぎすぎました。
  こうしてお話をするのは久しぶりのことですから。
  日記でしたね。わたしの日記のどこがお知りになりたいと……?
  発病から死に至るまでですか……(躊躇しつつ)つらい思いでばかりですが。結構です、お
  話ししましょう。
  (ひょいと口調と表情が変わり)ところでお客さん。

   明かりが元に戻り、男は賢治から、検事から、元の旅の役者に戻る。

           Y、INTERMISSION

男 おーい、お客さん。大丈夫ですか?眠ってませんか?着いて来てますかぁ?
  
  男は再び、座席に戻り、見えないわたしと向き合う。
  列車の走行音、再び。
 
男 どうです?おもしろいですか?理解していただけますか?
  賢治を殺したと、自ら名乗って出た、足の臭い謎の男ダルゲ、これを立証しようとする、これ
  また足の臭い敏腕  検事、そしてあろう事か検事によって黄泉の世界から証言  台に呼
  び出された、宮澤賢治。仲なかにエキサイティングかつ、アンビリーバブル、はっきり言って
  滅茶苦茶な話でしょう?
  イヤー、人前でやるのは初めてなんでいささか緊張してますが、ここまでは何とかうまく運 
  びました。しかし自分で書いといて何ですが、正直言って疲れます。一人で何もかもやらな 
  きゃならないんですから。はぁ、疲れた。(本音である)もう何人か仲間がいればねぇ。
  そうだ、いっそのこと舞台で募集しましょうか。(客席に向かって)唐突ではございますが、こ
  こで劇団員の募集をいたします。いえいえ、難しい資格はいりません。 いっしょに舞台を作
  ろうという、炎のような心があれば……
  タダ、ひとつだけ申し上げるなら、二十代後半から三十代前半までの、独身女性。
  資産家の御息女であれば云うことなしッ!なあーんて、下心見え見えですよね。
  (椅子に戻りながら)いやいや、これはお家の事情。それにね、この芝居、実は一人でやる
  ことに意味があるんです。って、これは楽屋落ち。

   それにしてもお客さん、いや失礼。あなた、大丈夫ですか?さっきはちゃかして云いました
  けど、本当に、お顔の色が悪いですよ。
  そうですか。気分が悪くなったら云って下さいね。じゃ、一寸失礼して。

     男は、懐から煙草とマッチを取り出し、うまそうに一服。 

男 おや、煙いですか?じゃ、窓を開けましょう。
     
  窓を開ける仕草。走行音高まる。

男 いやー、九月とはいえ、さすがに夜明けの風は冷たいですね。
  おや、どうしました。お顔が真っ赤になってきましたよ。熱でもあるんじゃないですか?

   このあたりから、男の目が、少しずつ残忍さを帯びてくる。

男 (煙を吐きながら)賢治は煙草を吸わなかったが、わたしはやりますよ。煙草だけじゃな  
  い、酒も博打も、そして女   も。
  (唐突に)諸君。酒を飲まないことで酒を飲むものより一割余計の力を得る。煙草を  のま
  ないことから、二割余計  の力を得る。けれどもこういうやり方を今までのほかの人たちに
  強いることはいけない。あの人たちはああいう風に  酒を飲まなければ、淋しくて寒くて生
  きていられないようなときに生まれたのだ。(煙草をもみ消し)
  これは「ポラーノの広場」の中で、ある人物に賢治が言わせたせりふです。
  (冷たく)ふん、ちゃんちゃら可笑しい、あいつに何がわかるって云うんだ。
  自分で作ったトマトや花を、ただで配って歩く農民がどこにいるって云うんだ。
  あいつは農民なんかじゃない。あいつが自分で云うとおり、ならず者、ごろつきさぎし、ねじ 
  けもの、うそつき、かたり  の隊長、ごまのはいの兄弟分、前科無数犯 弱虫の意気地な
  し、ずるもの、わるもの、偽善会会長だ。
  いや、失礼。わたしは何も、賢治を憎んでいるわけじゃない、むしろその逆だ。
  だからこそ、賢治を聖者のように奉る世間に我慢がならないんです。
  賢治は普通の人間だった。いや、むしろ弱い弱い人間だった。だからこそ、あれほど  法
  華経に、宗教にのめり   込むことができたんだ。しかし一方、賢治は天才だった。
  そうでなければ、たとえ宗教の力を借りたとしても、あれほど膨大な、しかも誰の心にも残る
  作品を残せはしなかった。
  矛盾しています、それは承知の上です!
  (冷静に)そろそろひとつ、種明かしをしましょうか。その矛盾が生んだ男、それがダルゲで
  す。いわば賢治の影を背負った男、賢治の分身、それこそがダルゲです。

  もちろんやつは哲人なんかじゃない「白亜紀の砂岩の斜層理について」なんて聞いてみた
  ところで答えられるわけがない。冷や汗を流して、冷ややかに笑うしかなかったんです。
  (立ち上がり)さあ、クライマックスです。ここから芝居はノンストップで突っ走ります。しっかり
  目を開けて見ていて下さい。(見えないわたしを見つめ)おや、どうしました。とても具合が悪
  そうだ。いいでしょう、お眠りなさい、ゆっくりと暗い奈落の底で。わたしには別の観客があ 
  る、物言わぬ多くの観客が(わたしが眠りにつくのを見届け)ただし、この窓は開けておきま
  しょう。
  冷たい風に当たって。その熱をお冷ましなさい。
  (客席に)さあ、お立ち会い。幾千幾万の死者達よ。見えない目を見開いて、しっかりと見届
  けなさい。物語の最後まで。この世界の終わりまで。

  とたんに汽笛が大きく響きく。
  男はまた、賢治になって語り始める。

          Z、日記

  かすかな歌声、芝居の最後まで続く……
  明かりはあくまでも蒼く。
  仮面の賢治が、ぼそぼそとつぶやく。

男 大正三年の四月、十八歳の時、盛岡市岩手病院で、肥厚性鼻炎の手術を受けました。
  手術後、高熱が続き発疹チフスの疑いが起こりましたが、おそらくこの時、結核に感染した
  のだと思われます。大正七年二十二歳の六月、身体に異常を覚え診断を受けましたが、大
  したことはなく、好きな山歩きを多少控えたくらいです。
  それ以後、大正十年一月、家出同然の上京から、同年十二月、後に花巻農学校となる稗 
  貫郡稗貫農学校への入職。大正十五年羅須地人協会の設立まで、時折発熱し寝込むこと
  はありましたが、大事には至りませんでした。
  それよりも、わたくしのことよりも、大正八年に発病し、大正十一年十一月二十七日
  わたくしよりも早くこの世を去った、わたくしの最愛の妹であり、且つまた最大の理解者であ
  ったトシ子の死が、最後  まで、わたくしの心に大きな傷と、暗い影を落としました。そし 
  て、昭和三年八月。それまで続けてきた、野菜のみの食事による栄養失調と、過労のため
  発熱。花巻病院に入院しました。内科医長の診断は、両側肺浸潤。
  昭和四年四月、病状次第に悪化。(茫として)この頃から、いや、もっと以前からです。はじ
  めは、熱でうなされているとき、それから後は徐々に徐々に、日常の中にまで、幻聴が幻覚
  が、わたくしの周りにまとわりついて、離れなくなりました。その幻覚の中に、必ず姿を見せ
  る一人(と言っていいでしょう)の男がありました。そう、わたしに残されたたったひとつの語
  るべきこと、わたしが背負うたったひとつの語ってはならないもの。黒い山高帽に黒ズボ  
  ン、黒いコートの襟を立て、ある時は風にざわめく林の中から、ある時は降りしきる雪の彼
  方から、ある時はのぞいた井戸の水のそこから、何も云わず、瞬きもせずじっとわたくしを
  見ている一人の男。不思議とわたくしは、その男に恐怖を感じませんでした。それどころ  
  か、ある種の懐かしささえ覚えたほどです。そうです、ずっと昔に忘れてきた自分自身に出
  会ったような……しかしある時から、ぱたりとその男は見えなくなった。昭和五年四月、よう
  やく病が快方の兆しを見せ始めたあのころからです。そのころわたくしは、密かにその男に
  前を付けました。わたくしが書いた短い物語に出てくるその男は、わたくしのあこがれでし 
  た、この宇宙と時間の真理を知るその男は、わたくしの崇敬の的でした。
  そしてその男に再び出会ったのは、昭和六年、鈴木東蔵のすすめで、技術宣伝員として東
  北採石場に勤めはじめ、再び病を得ることになった、その年の九月十九日。
  わたくしが、三十五歳の秋でした。
  告白します。わたくしが、その幻の男をなんと呼んだか。わたくしが、その影の男をなんと名
  付けたか……その男の名は……

  男は立ち上がる。そして、仮面の上から眼鏡をかける。
  久方ぶりの検事の登場。当然明かりも変わる。
  ただし、先ほども書いたように、もの悲しい歌声は、最後まで消えない。
  それどころか、少しずつ、少しずつ大きくなって行く。

男 ダルゲ……
  さて、ここから先は、証人宮澤賢治氏の記憶を元に再生した日記を、わたしが読み上げま
  しょう。そろそろ「イタコール」の効き目が切れてきたようだ。しかし彼の、宮澤賢治の記憶 
  はすでにわたしの中にある。
  ……もうあまり時間がない。先を急ぎましょう。
  昭和六年九月十九日。東京出張。途中仙台で下車。
  病の癒えたわたくしの身体から、しかし、大トランクと、それに詰めた見本の化粧煉瓦の、4
  0sの重さが容赦なくわ  たくしの体力を奪って行く。
  その日は仙台に一泊。
  しかし隣の客が騒いで眠れない。一体どんなやつだと、ふすまの隙間からのぞいてみた  
  が、部屋の中は真っ暗だ。その暗闇の中から、男の笑う声、泣く声、叫び声、そして誰かに
  向かって話しかける声が聞こえる。だがおかしなことに、相手の声は聞こえない。男は真っ
  暗な部屋の中で、返事をしない相手に向かって、話しかけ、泣き、笑い、そして叫んでいる。
  まるで、血を吐いて倒れる前の、わたくし自身の声を聞くようだ。
  その男は血を吐く代わりに、言葉を、誰に対するものでもない叫びを吐いている。
  男の声を聞くうちに、胸は熱く、身体の芯は冷たくなった。
  翌、昭和六年九月二十日。午前四時。一睡もできぬまま、仙台発上野行きの列車に乗  
  り込む。向かいの席に乗り合わせた男がしきりにわたしに話しかける。
  何でも旅の役者らしいが。ああ、何でもいい、頼むからもう眠らせてくれ、休ませてくれ。わ 
  たくしはもう充分生きた。  働いた。どんなに働いても、どんなに分かり合おうとも、また、 
  どんなに分かり合えなくとも、人は皆、たった一人、孤独とともに志し半ばで、この世から去
  って行くのだ。だからもう、わたしのことは、わたくしのことは、放っておいてくれ、どうか、そ
  っとしておいて下さい……
  いつの間にか、ぐっすりと寝込んでいた。
  もう、旅の役者だというあの男はいなかった。だが男の座っていた席に紙切れが一枚。
  「ゆっくりとお眠りなさい……ダルゲ」ダルゲ、ダルゲ、ダルゲ……

    これは本当に、旅の役者なのか?それとも賢治の霊なのか?
  もう見分けが着かない。というよりも二人は一人……

  ああ、頭が痛い、耳ががんがん鳴っている。どうやら男は、窓を閉め忘れたらしい。
  早朝の冷たい風で、わたくしの身体はあの日の雨雪のように凍えていた。
  同日夜半、上野到着。タクシーにて、神田駿河台南甲賀町十二番地、八幡館に至り病臥。
  激しい熱。肺炎……再発……
  この時わたくしは、はっきりと死を意識し、翌日、花巻の両親に手紙を書いた。
  「この一生の間、どこの、どんな子供も受けないような、厚いご恩を頂きながら、い
  つもわがままでお心に背き、とうとうこんなことになりました。
  今生で、万分一つもついにお返しできませんでしたご恩は、きっと次の生、またその次の生
  で御報じ致したいと、それのみを念願いたします。
  どうか、ご信仰というのではなくても、お題目でわたくしをお呼び出し下さい。
  そのお題目で、絶えずお詫び申し上げ、お答えいたします。
  九月二十一日 父上様。母上様。……………………………………………………賢治』
  これは、わたくしの残した、たったひとつの遺書だった。遺書でした……

  男は、放心したように眼鏡を取り、腰を下ろす。

男 それから二年、わたしは、わたくしは……賢治は、生きながらえました。
  花巻の宮澤の家に帰ったのが、九月二十八日。
  それから、死ぬというその日まで、病は一進一退。それでも確実に、賢治のわたくし
  の身体をむしばんで行きました。
  そして病の床で、熱にうかされた意識の中で、ふとうわごとのように黒い手帳に書き残した
  のが、あの詩……いや、詩なんてもんじゃない。あれはわたしの、わたくしの、賢治の祈り 
  でした。叫びでした。
   昭和六年十一月三日
 
    「雨ニモマケズ
     風ニモマケズ
     雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ
     丈夫ナカラダヲモチ
     慾ハナク
     決シテ怒ラズ
     イツモシヅカニワラッテイル
     一日ニ玄米四合ト
     味噌ト少シノ野菜ヲ食ベ
     アラユルコトヲ
     ジブンヲカンジヨウニ入レズニ
     ヨクミキキシワカリ
     ソシテワスレズ
     野原ノ松ノ林ノ蔭ノ
     小サナ萱ブキノ小屋ニイテ
     東ニビヨウキノコドモアレバ
     行ツテ看病シテヤリ
     西ニツカレタ母アレバ
     行ツテソノ稲ノ束ヲ負ヒ
     南ニ死ニサウナ人アレバ
     行ツテコワガラナクテモイイトイヒ
     北ニケンクワヤソシヨウガアレバ
     ツマラナイカラヤメロトイイ
     ヒデリノトキハナミダヲナガシ
     サムサノナツハオロオロアルキ
     ミンナニデクノボートヨバレ
     ホメラレモセズ
     クニモサレズ
     サウイフモノニ
     ワタシハナリタイ」

  つぶやきは叫びに、叫びはわななきに……

男 (泣いている)ナーンモデギナガッタ。ダーレモタスケラレナガッタ。
  オレハバガデ、メチャクチャデ、マルデナッデネェ。
  ソウイウモノニワタシハナリテェ?インヤ。オレハマサニバガノデギソコネー。
  オレハタダノ、デグノボーダ。

  ふと気づいて、後ろを振り向く。
  見えないわたしが見ている。

男 (少し恥ずかしそうに)おや、お目覚めですか。
  そうですか、全部ご覧になっていたんですね。しかし、ここまでです。
  芝居はもうありません。ダルゲはとうとうでてきませんでしたがね。
  云ったでしょ、途中までしかできていないって。
  ……この先ですか?この先は、お見せできません。
  どうしてもご覧になりたい?
  ご覧になれば、あなたも修羅の道を歩くことになりますよ。
  ……そう、そうですか。ただ確かめたいだけだと。
  あなたにはもうすべておわかりのようだ。
  ダルゲが何者なのか、ソシテ、わたしが何者なのか。
  (少し笑って)ではもうしばらく、おつきあい願いましょうか。

  男はゆっくりと、側に置いてあったコートに近づき、袖を通し、そして、帽子をかぶる。
  その一連の動作の中。

男 昭和八年、寝たり起きたりを続ける毎日でしたが、容態は安定しないまま、賢治は最後の
  秋を迎えます。
  九月十九日。花巻鳥谷ヶ崎神社の大祭最後の日。賢治は、あたりに冷気が漂う夕刻になっ
  ても、「もうすこし、もう   すこし」と家の門口にでて御神輿と人の列を見送っていました。
  そして夜七時。一人の農民が、肥料の相談にと、賢治を訪ねてきました。
  家のものは断ろうとしましたが、賢治に伝えると「それは大事なことだから」と、起きて着物を
  抱え、うち玄関へと降りて来ました……

  後ろ向きになり、見えないわたしと賢治に向かって。

男 オバンデガンス。
     
      [、終章

男 久しぶりだねィ。お元気でしたか。いんや、元気なわけねえが?
  (客席に向き直り)いやね、最初は百姓のかっこしでこよと思ったんだげど……
  今日でもうあんだと会うのも最後だから。ホンとのかっこできたんだ。
  今日からは、ずっと、ずーっといっしょだがら。だがらもう、百姓めかしてしゃべるのは(帽子
  を取り)やめにしましょう。

      ゆっくりと客席を振り向く男。
      しゃべっているのは、誰なのか。賢治なのか、旅の役者と名乗るその男     
      なのか、それとも……

男 ―もう、おわかりでしょう。
  わたしが何をしに出てきたのか。
  あなたに何を云いたいのか。
  そして、わたしが何者なのか……
  ―(頷き)はい、わかっております。
  わたくしはずっと以前、あなたの姿を目にするようになってからずっと、心のどこかで、この 
  日がくるのを、あなたがこうして訪れてくれるのを待っていたような気がします。あれは、あ 
  なたですね。旅館の二階で、わたくしを眠らせなかったのも、客車の窓を開けたまま、姿を
  消したのも……

   ―(うれしそうに頷き)そうです、そうです。そして今日は本当に、お迎えに来ました。本当 
  に、お別れに来ました。あなたはもう、十分に働いた。十分に生きた。だから行きましょう、
  わたしといっしょに。
  ―(微笑み)はい。ですが、すこしだけ、時間を下さいますか。家族のものに、別れを言わね
  ばなりません。
  --それは、かまいませんが……本当は、お別れを言う必要など無いのですよ。
  この先百年、二百年経っても、幾千幾万の人々の心の中に、幾千幾万の宮澤賢治が生き
  続ける。住み続けるのですから。
  しかしまだ少し時間はあります。いずれにしても、あなたはわたしを裏切れない。あなたは 
  自分を裏切れない。
  いいでしょう、お待ちしていますよ。汽車の出る時間まで、その先の辻で。
  ―ありがとう(去りゆく男の後ろ姿に)「Keu vi estas?」

  そして、ゆっくりと歩き出す。だが、先ほどの自分の問いかけに反応し
  立ち止まり。

男 わたしは、あなたです。出来損ないのあなたです。本当のあなたの半分です。あなたが忘 
  れてきた男です。ハゲて  ます。脂ぎってます。醜く肥え太っています。足も臭いです、非 
  常に臭いです。煙草を飲みます。酒も博打も女もやり  ます。
   世の中のなんの役にも立たない男です。デクノボーです。
  そうです、わたしの名はダルゲ。「Mi estas dalge」
  幾千万、幾億万の、宮澤賢治の一人です。

  舞台中央に戻り。

男 昭和八年、九月二十一日。午後一時三十分。
  宮澤賢治永眠。
  享年三十七歳。
  (ふりかえり)これで本当に、芝居は終わりです。
  わたしはもう、行かなければなりません。
  もうすぐ汽車が出ます。こんな不完全な幻想第四次の銀河鉄道なんかではない、本当に、 
  本当に、どこまでも、いつまでも走り続ける列車です。もうお別れです。
  (微笑み)そんなに悲しそうな顔をしないで下さい。また、きっと会えますよ。いや、これは気
  休めですね。ただたしかに、私たちはもうずっといっしょだ。
  あなたの中にも、わたし・ダルゲが、わたくし・宮澤賢治が、生き続けているのですから。
  それでは、さようなら。

      悲しい歌声が鳴り響く。
  男は深々と頭を下げる。
  そして顔を上げると、男はもういない。仮面を手にしたわたしが立っているだけだ。

 

     エピローグ・「我はダルゲを名乗れるものと」

  歌声は続く。
  男は仮面を見つめながら、つぶやく……

男 こうしてまた、あの人は見えなくなってしまいました。
  最後にあの人が云ったように、わたしはもう二度とあの人に会うことはないでしょう。
  けれどもまだ、この旅を終わりにするわけには行きません。
  わたしの中にあの人……ダルゲが、宮澤賢治が生きている限り。

   仮面を舞台奥の壁に掲げる。
  それを見つめながら、静かに語り始める。

男 「我はダルゲを名乗れるものと つめたく最後の別れを交わし
   閲覧室の三階より 白き砂をはるかにたどるここちにて 
   地下室に下り来たり かたみに湯と水とを呑めり
   そのとき瓦斯のマントルはやぶれ 焔は葱の華なせば
   網膜半ば奪われて その洞黒く錯乱せり
   かくてぞわれはその文に ダルゲと名乗る哲人と
   永久のわかれをなせるなり
   永久のわかれをなせるなり……」

  語りつつ男は退場。
  明かりが徐々に暗くなり、暗闇の中、仮面だけがはっきりと浮かびあがる。
  音楽最大。
     そして、暗転。

                     
     以上は、ある男の妄想の物語である。
     もちろん彼には、妄想と現実の区別は付かない。
     彼に対して、それは妄想だと断言できる方があれば、喜んで彼にご紹介
     しよう。ただ、これだけは一言お断りをしておく。
     ひとしきりあなたと議論を戦わせたところで、彼はこういうに違いない。
    「……それで、今のあなたのお話も、私の妄想だと仰るのですね……」と……
    
  (幕)





















 




  参考文献

  新修宮澤賢治全集(筑摩書房刊)
  ザ・賢治(第三書館刊)
  新潮日本文学アルバム「宮澤賢治」(新潮社刊)
  年表作家読本「宮澤賢治」(河出書房新社)

  明石散人「鳥玄坊三部作」(講談社刊)
  秋浜悟史「賢治祭」(悲劇喜劇1993・3月号所収)
       井上ひさし「イーハトーボの劇列車」(新潮社刊)
       堀尾青史「年譜宮澤賢治伝」(中央公論社刊)
       夢枕 獏「上弦の月を食べる獅子」(早川書房刊)
       吉田 司「宮澤賢治殺人事件」(太田出版)
       吉本隆明「宮澤賢治」(筑摩書房刊・近代日本詩人選)

 
       






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