1、私家版宮沢賢治幻想旅行記・抄


     闇の中、生まれたばかりの赤子の鳴き声。ゆっくりと明かりが入る。
  黒上着に黒ズボン、白いステンカラーのシャツを着た男が、中央に座す。
     
男  南無妙法蓮華経―
    南無妙法蓮華経―
    南無妙法蓮華経―

 この一生の間、どこのどんな子供も受けないような厚いご恩を頂きながら、いつもわがまま
  で お心に背き、とうとうこんなことになりました。今生で万分一つもついにお返しできませんで
  したご恩は、きっと次の生、またその次の生で御報じいたしたいと、それのみを念願いたしま
  す。
 どうか、ご信仰というのではなくても、お題目で私をお呼び出し下さい。そのお題目で、絶えず
  おわび申し上げ、お答えいたします。
  昭和八年九月廿十一日、父上様、母上様、賢治。

    汽車の汽笛。暗闇。迫りくる走行音。
    やがて汽車が遠ざかると、静かな音楽。誰もが、生まれたばかりの時に聞いた・・・

    明かりが入ると、男が中央に立っている。
    傍には、ふるぼけたトランク、その上に山高帽。
    その山高帽をそっと手に取り、その男「わたし」は語り始めた。

わたし わたしたちは、氷砂糖をほしいくらい持たないでも、夢の中では、きれいにすきとおっ
  た風をたべ、桃いろのうつくしい朝の日光をのむことができます。
 またわたしは夢の中で、ひどいぼろぼろのきものが、いちばんすばらしいびろうどや羅紗や、
 宝石入りのきものにかわっているのをたびたび見ました。
 わたしはそういうきれいなたべものやきものや、ことばをすきです。
 これからのわたしのおはなしは、わたしがおきてなお見る夢の中の、野原や林や、鉄道線路
  やらで、みんなあの人からもらってきたのです。
 ほんとうに、コンクリートでかためられた川のそばを通りかかったり、十一月のビルの谷間に
  ふるえながら立ったりしますと、もうどうしても目を閉じて、あの人の声を聞きたくてならないの
  です。
 ほんとうにもうあの人が、わたしの心の中で叫んでいるようでしかたのないその通りを、これ
  からのおはなしに仕組んだまでです。
 ですからこれらのなかには、わたしの考えたこともあるでしょうし、あの人のことばもあるでし
  ょうが、わたしにはもうその見分けがよくつきません。何のことだか分けのわからないところも
  あるでしょうが、そんなところは、わたしにも、たぶんあの人にも、わけがわからないのです。
 けれどもわたしは、これからのことばのひとつひとつ、小さなものがたりのいくきれかが、
 おしまい、わたしの夢の中でぼんやりと光っているあの人、宮澤賢治を捜す旅の、すきとおっ
  た、ほんとうの時刻表になることを、どんなに願うか、わかりません・・・

わたし (ふと、遠くを見つめる表情)わたしの夢の中に、一人の男が棲み付いています。
  もうどのくらい前からか、ひょっとしたら、まだ言葉も満足に話せない、子供のころだったか
  も知れません。その男は、わたしの夢の中に現れては、いろいろな話をしてくれました。
  時にはぼそぼそと消え入りそうな声で、時には自分の言葉に酔ったように闊達に、時には
  獣のように叫びながら、そして時には、やさしく歌うように・・・
  わたしの頭の中は、夜毎の夢に現れては消える、あの人の言葉でいっぱいでした。

    音楽がいつのまにか聞こえなくなっている。
    かわって、時を刻む音が大きく響く。
    男は帽子をかぶり、音に合わせてゆっくり、ギクシャクと動きながら「わたくし」のとばを
  語り始める。   
            
春と修羅第一集「序」

わたくし わたくしという現象は
     仮定された有機交流電灯の
     ひとつの青い照明です
      (あらゆる透明な幽霊の複合体)
     
  風景やみんなといっしょに
     せわしくせわしく明滅しながら
     いかにもたしかにともりつづける
    
  因果交流電灯の
     ひとつの青い照明です
      (ひかりはたもち その電灯は失われ)
     
  これらは二十二箇月の
     過去と感ずる方角から
     紙と鉱質インクを連ね
      (すべてわたくしと明滅し
  みんなが同時に感ずるもの)
     ここまでたもちつづけられた
     かげとひかりのひとくさりづつ
     そのとおりの心象スケッチです
         
     これらについて人や銀河や修羅や海胆は
     宇宙塵をたべ または空気や塩水を呼吸しながら
     それぞれ新鮮な本体論もかんがえましょうが
     それらも畢竟こころのひとつの風物です
     ただたしかに記録されたこれらのけしきは
     記録されたそのとおりのこの景色で
     それが虚無ならば虚無自身がこのとおりで
     ある程度まではみんなに共通いたします
      (すべてがわたくしのなかのみんなであるように
  みんなのおのおののなかのすべてですから) 
  
     けれどもこれら新生代沖積世の
     巨大に明るい時間の集積のなかで
     正しくうつされたはずのこれらの言葉が
     わずか一点にも均しい明暗のうちに
      (あるいは修羅の十億年)
     すでにはやくもその組立や質を変じ
     しかもわたくしも印刷者も
     それを変わらないとして感ずることは
     傾向としてはあり得ます
     けだしわれわれがわれわれの感官や
     風景や人物をかんずるように
     そしてただ共通に感ずるだけであるように
     記録や歴史 あるいは地史というものも
     それのいろいろの論料といっしょに
      (因果の時空的制約のもとに)
     われわれがかんじているのにすぎません
     おそらくこれから二千年もたったころは
     それ相当のちがった地質学が流用され
     相当した証拠もまた次々過去から現出し
     みんなは二千年ぐらい前には
     青ぞらいっぱいの無色な孔雀がいたとおもい
     新進の大学士たちは気圏のいちばんの上層
     きらびやかな氷窒素のあたりから
     すてきな化石を発掘したり
     あるいは白亜紀砂岩の層面に
     透明な人類の巨大な足跡を
     発見するかもしれません

     すべてこれらの命題は
     心象や時間それ自身の性質として
     第四次延長のなかで主張されます

    時を刻む音が少し速くなる。そのリズムに合わせて男が唄う。

応援歌

わたくし♪バルコク バララゲ 
     ブランド ブランド ブランド 
     ラアメティングリ カルラッカンノ
     サンノ サンノ サンノ
     ラアメティングリ ラメッサンノ
     カンノ カンノ カンノ
     ダルダル ピイトロ ダルダルピイロ
     ただしい ねがいは
     まことの ちから
     すすめ すすめ すすめ
    ♪やぶれ かてよ
     
わたくし ただしい願いはまことの力。進め、進め、すすめーっ!やぶれ、勝てよ。       
  
   ただしい言葉はまことの力、すすめ、すすめ、すすめ・・・やぶれて、勝てよ。

    音楽。男は帽子を脱ぎ、トランクの上にそっと置く。

わたし 昨夜、夢の中であの人は消えそうでした。朝の日の光に気おされて、次第におぼろに
  かすんでゆく月の光のように、ぼんやりと佇んでいるあの人は、少しずつ、少しずつ、わたし
  から遠ざかっていくようでした。
 少し首をかしげて、どこか遠くを見つめているような痩せたその顔は、寂しさと悲しさの入り混
  じった、なんともいえない表情でしたが、それでいてよく見ると、さえざえとして。何か少し笑っ
  ているようでもありました。

    男は、そのような表情で、力なくトランクに腰掛ける。
    激しい音楽。炎の赤。

「丁丁丁丁丁」

わたくし (激しく熱にうなされ)
           丁丁丁丁丁
           丁丁丁丁丁
     叩きつけられている 丁
     叩きつけられている 丁
     藻でまっくらな 丁丁丁
     塩の海   丁丁丁丁丁
       熱   丁丁丁丁丁
       熱 熱   丁丁丁
          (尊々殺々殺
           殺々尊々々
           尊々殺々殺
           殺々尊々々)
     ゲニィめとうとう本音を出した
     やってみろ   丁丁丁
     きさまなんかにまけるかよ
       何か巨きな鳥の影
       ふう    丁丁丁
     海は青じろくあけ  丁
     もうもう上がる蒸気のなかに
     香ばしく息づいて泛ぶ
     巨きな花の蕾がある

    静かな音楽。深海の蒼。

「眼にて云ふ」

わたくし だめでせう
     とまりませんな
     がぶがぶ湧いているですからな
     夕べから眠らず血も出つづけなもんですから
     そこらは青くしんしんとして
     どうも間もなく死にそうです
     けれどもなんといい風でせう
     もう清明が近いので
  あんなに青空からもりあがって湧くように
  きれいな風がくるですな
  もみぢの嫩芽と毛のような花に
  秋草のような波をたて 
  焼痕のある藺草のむしろも青いです
  貴方は医学会のお帰りか何かは知りませんが
  黒いフロックコートを召して
  こんなに本気にいろいろ手あてもしていただけは
  これで死んでもまずは文句もありません
  血が出ているにもかかわらず
  こんなにのんきで苦しくないのは
  魂魄なかばからだをはなれたのですかな
  ただどうも血のために
  それを云えないがびといです
  あなたのほうから見たらずいぶんさんたんたるけしきでしょうが
  わたくしから見えるのは
  やっぱりきれいな青空とすきとおったかせばかりです

    音楽クロスして。明かりは元の夢の中。

わたし (背筋を伸ばして座りなおし)
  そしてまた、次第しだいにわたしから遠くなってゆくあの人は、ともすればこの幻想の世界
  を包む暗闇に溶け込みそうになりながら、なにかつぶやいているようでした、泣いているよ
  うしでした、叫んでいるようでした。

    白いぼんやりとした光。死の音楽。
 
「そしてわたくしはまもなく死ぬのだろう」

わたくし (ゆっくりと立ち上がり)
     そしてわたくしはまもなく死ぬのだろう
     わたくしというのはいったい何だ
     何べん考えなおし読みあさり
     そうとも聞きこうも教えられても
     結局まだはっきりしていない
     わたくしというのは
  
    男は床にくずれおちる。
    夕陽が男の顔を照らす。

「雨ニモ負ケズ」

わたくし ・・・ナリタイ・・・ナリタイ・・・ナリタイ・・・ナリタイ・・・
     雨ニモ負ケズ
     風ニモ負ケズ
     雪ニモ夏ノ暑サニモ負ケヌ
     丈夫ナカラダヲモチ
     欲ハナク
     決シテ瞋ラズ
     イツモシズカニワラッテイル
     一日ニ玄米四合ト
     味噌ト少シノ野菜ヲタベ
     アラユルコトヲ
     ジブンヲカンジヨウニ入レズニ
     ヨクミキキシワカリ
     ソシテワスレズ
     野原ノ松ノ林ノ陰ノ
     小サナカヤブキノ小屋ニヰテ
     東ニ病気ノコドモアレバ
     行ッテ看病シテヤリ
     西ニツカレタ母レバ
     行ッテソノ稲ノ束ヲ負イ
     南ニ死ニソウナ人アレバ
     行ッテコワガラナクテモイイトイヒ
     北ニケンカヤソショウガアレバ
     ツマラナイカラヤメロトイイ
     ヒデリノトキハナミダヲナガシ
     サムサノナツハオロオロアルキ
     ミンナニデクノボウトヨバレ
     ホメラレモセズ
     クニモサレズ
     サウイフモノニ
     ワタシハナリタイ
わたくし ・・・ナリタイ・・・ナリタイ・・・(泣いている)ナァーンモデギナガッタ、ダーレモタスケ
  ラレナガッタ。ソウイウモノニワタシハナリテェ?インヤ、オレハマサニ、バカノメチャク
  チャノデキソコネー・・・オレハタダノ、デクノボーダ。

    音楽クロス。男はよろよろと立ちあがる。  
 
わたし そして、あの人の姿は見えなくなりました。ただあの人を包んでいたあのおぼろな光だ
  けは、わたしのまわりにまとわりついて離れませんでした。
  その時ふと、あるひとつの考えがわたしの心に突き刺さりました。
  ・・・アノヒトカラ トオザカッテイルノハ ワタシノホウデハナカッタノカ・・・
  その途端、熱い鉄の塊を飲み込んだような熱と痛みが、わたしの胸を駆けめぐりました。

  音。
  明滅する光。

わたし 光の速さで暗闇に向かって落ちてゆくわたし。
  見つめるのはあの人、見つめられているのはわたし。
  声にならない叫びをあげているわたしの手にしっかりと・・・しっかりと握られていたのは一
  通 の手紙でした。
  
  音が消える。

わたし (見えない手紙を見つめ)出したことのないわたしの手紙への、来るはずのないあの人
  からの最後の返事。

  暗くなる。が、すぐに淡い光が差す
  男はまっすぐに立っている。
 
わたくし 八月廿十九日附お手紙、ありがたく拝誦いたしました。あなたはいよいよご元気なよ
  うで実に何よりです。私もお蔭で大分癒っては居りますが。どうも今度は前と違ってラッセル音
  容易に除かれず。咳が始まると仕事も何も手につかずまる二時間も続いたり、あるいは夜中
  胸がびうびうなって眠られなかったり。仲々もう全い健康は得られそうもありません。
  けれども咳のない時はとにかく人並みに机に座って切れ切れながら七八時間は何かしていら
 れるようになりました。
 あなたがいろいろ思い出して書かれたようなことは最早二度とできそうもありませんがそれに
  代わることはきっとやる積もりで毎日やっきとなっております。しかも心持ばかり焦って
 つまずいてばかりいるような訳です。  私のこういう惨めな失敗はただもう今日の時代一般
  の大きな病「慢」というものの一支流に
  過って身を加えたことに原因します。
  わずかばかりの才能とか、器量とか、身分とか財産とかいうものが、何かじぶんのからだに
  ついたものででもあるかと思い。自分の仕事を卑しみ、同輩を嘲り、いまどこからかじぶんを
  所謂社会の高みへ引き上げにくるものがあるように思い、空想をのみ生活して却って完全な
  現在の生活をば味わうこともせず、幾年かが空しく過ぎて、漸く自分の築いていた蜃気楼の
  消えるのを見ては、ただもう人を怒り世間を憤り、従って師友を失い憂悶病を得るといったよ
  うな順序です。
  あなたは賢いしこういう過りはなさらないでしょうが、しかしなんと言っても時代が時代ですか
  ら充分にご戒心ください。
  風の中を自由に歩けるとか、はっきりした声で何時間も話ができるとか、自分の兄弟のため
  に何円かを手伝えるとかいうようなことは、できないものから見れば神の業にも等しいもので
  す。
  そんなことはもう人間の当然の権利だなどという考えでは、本気に観察した世界の実際と余
  り遠いものです。
  どうか、今のご生活を大切にお護り下さい。
  上のそらでなしに、しっかり落ちついて、一時の感激や興奮を避け、楽しめるものは楽しみ、
  苦しまなければならないものは苦しんで生きていきましょう。
  いろいろ生意気なことを書きました。病苦に免じて赦してください。
  それでも今年は心配したようでなしに作もよくて、実にお互い心強いではありませんか。
  また―書きます。

  手紙が握られていた筈の男の手のひらのなかに、四つに折ったはがきくらいの大きさの
  緑色の一枚の紙切れが載っている。
  音楽。
  少し首をかしげて、どこか遠くを見ているような男の顔は、さびしく悲しい。が、よく見ると、
  冴え冴えとして何か少し笑っているようでもある。
  ほのかな明かり。

わたし こうして、わたしの夢の中から、あの人はいなくなりました。
  あの人を見つめていたわたしも、もうそこにはいませんでした。そしてあとには、小さな男の
  子が一人、一枚の紙切れをしっかりと握りしめて、泣きながら立っていました。
  それは子供のころ、友達が川に流されてしまった夜、その子を捜す船の灯りをじっと見つめ
  ていたあの人でした。
  近所のガキ大将に、買ってもらったばかりのおもちゃを取り上げられて泣いていたわたしで
  した。
  怪我した友達の、血と泥にまみれた指を「いたかべ、いたかべ」と、夢中で吸っていたあの
  人でした。
    母のいなくなったあの日、がらんとした部屋の中にただぼうっと立ちつくしていたわたしでし
  た。(叫ぶ)それはわたしでした。それはあの人でした!

    音楽クロス。大きく。
    一瞬まばゆいばかりの光。

私 「カムパネルラー、僕たち一緒にいこうねー」

    静かな歌声が流れる。

私 ジョバンニがこう云いながらふりかえって見ましたら、その今までカムパネルラの座ってい
  た席に、もうカムパネルラの形は見えず、ただ黒いビロードばかり光っていました。
  ジョバンニはまるで鉄砲丸のように立ち上がりました。そして誰にも聞こえないように窓の外
  にからだを乗り出して、力いっぱい激しく胸を打って叫び、それからもう咽喉いっぱい泣き出し
  ました。
  もうそこらが一ぺんに暗くなったようにおもいました。そのとき―
  「おまえはいったい何を泣いているの。ちょっとこっちをごらん」あの今までたびたび聞こえ
  た、あのやさしいセロのような声が、ジョバンニのうしろから聞こえました。ジョバンニは  
  はっとおもって涙をはらってそっちをふり向きました。
  さっきまでカムパネルラの座っていた席に黒い大きな帽子をかぶった青白い顔の痩せた大
  人が、やさしくわらって大きな一冊の本をもっていました。
  「おまえのともだちがどこかへ行ったのだろう。あのひとはね、ほんとうにこんや遠くへ行った
  のだ。おまえはもうカムパネルラをさがしてもむだだ」
  「ああ、どうしてなんですか。ぼくはカムパネルラといっしょにまっすぐに行こうと云った
  んです」
  「ああ、そうだ。みんながそう考える。けれどもいっしょに行けない。そしててみんながカム
  パネルラだ。おまえがあうどんなひとでも、みんな何べんもおまえといっしょに林檎をたべ
  たり汽車に乗ったりしたのだ。だからやっぱりおまえはさっき考えたように、あらゆる人のい
  ちばんの幸福をさがし、みんなといっしょに早くそこに行くがいい、そこでばかりおまえは、
  ほんとうにカムパネルラといっしょにいつまでもいっしょにいけるのだ」
  「ああぼくはきっとそうします。ぼくはどうしてそれをもとめたらいいでしょう」
  「ああ、わたくしもそれをもとめている。おまえはおまえの切符をしっかりもっておいで。
  そして一しんに勉強しなけぁいけない。おまえは化学をならったろう、水は酸素と水素からで
  きているということを知っている。今はたれだってそれを疑やしない。実験してみるとほん
  とうにそうなんだからけれども昔はそれを水銀と塩でできていると云ったり、水銀と硫黄で
  できているといったりいろいろ議論したのだ。
  みんながめいめいじぶんの神様がほんとうの神様だというだろう。けれどもお互ほかの神様
  を信ずる人たちのしたことでも涙がこぼれるだろう。それからぼくたちの心がいいとかわるい
  とか議論するだろう。そして勝負がつかないだろう。けれどももしおまえがほんとうに勉強して
  実験でちゃんとほんとうの考えとうその考えとを分けてしまえば、其の実験の方法さえきまれ
  ば、もう信仰も化学と同じようになる。
  けれども、ね、ちょっとこの本をごらん、いいかい、これは地理と歴史の辞典だよ。
 この本のこの頁はね、紀元前二千二百年の地理と歴史が書いてある。よくごらん、紀元前二
  千二百年のことでないよ。紀元前二千二百年のころにみんなが考えていた地理と歴史という
  ものが書いてある。だからこの頁ひとつが一冊の地歴の本にあたるんだ。
  いいかい、この本に書いてあることは、紀元前二千二百年ころにはたいてい本当だ。探す
  と証拠もぞくぞく出ている。けれどもそれが少しどうかなとこう考えだしてごらん、そら、それは
  次の頁だよ。
  紀元前一千年。だいぶ地理も歴史も変わっているだろう。このときにはこうなのだ。変な顔
  をしてはいけない。ぼくたちはぼくたちのからだだって考えだって天の川だって汽車だって歴
  史だって、ただそう感じているのなんだから。そらごらん、ぼくといっしょにすこしこころもちをし
  づかにしてごらん。いいか」                                       
 
  その人は指を一本あげてしづかにそれをおろしました。
  するといきなりジョバンニは自分というものが、じぶんの考えというものが、汽車やその学者
  や天の川や、みんなといっしょにぽかっと光って、しいんとなくなって、ぽかっとともってまたな
  くなって、そしてその一つがぽかっとともると、あらゆる広い世界ががらんと開け、あらゆる歴
  史がそなわり、すっと消えると、もうガランとした、ただもうそれっきりになってしまうのを見まし
  た。
 だんだんそれが早くなって、まもなくすっかりもとのとおりになりました。
  「さあいいか、だからおまえの実験は、このきれぎれの考えのはじめから終わりすべてにわ
  たるようでなければならない。それがむずかしいことなのだ。けれども、もちろんそのときだけ
  のでもいいのだ。
  ああごらん、あすこにプレシオスが見える。おまえはあのプレシオスの鎖を解かなければな
  らない」
  そのときまっくらな地平線の向こうから青白いのろしが、まるでひるまのようにうちあげら
  れ、汽車の中はすっかり明るくなりました。そしてのろしは高くそらにかかってひかりつづけま
  した。
  「ああ。マジェランの星雲だ。さあもうきっと僕は僕のために、僕のお母さんのためにカムパ
  ネルラのために、みんなのために、ほんとうのほんとうの幸福をさがすぞ」
  ジョバンニは唇を噛んで、そのマジェランの星雲をのぞんで立ちました。そのいちばん幸福
  な、その人のために!
  「さあ、切符をしっかり持っておいで。おまえはもう夢の鉄道の中でなしに本当の世界の火
  やはげしい波の中を大股にまっすぐに歩いていかなければいけない
  天の川のなかでたった一つの、ほんとうのその切符を決しておまえはなくしてはいけない」

    音楽最大。
    世界は白い光に包まれ、そしてゆるやかに暗くなる。
    静かな音楽。
    ゆっくりと明かりがともり・・・

私 これで私のおはなしはおしまいです。あの人はもう私の夢の世界に現れることはありませ
  ん。
  そして旅は、ここから始まるのです。
  遠くへ行ってしまったあの人、宮澤賢治に出会うために、ほんとうの自分に近づくために、
  不完全な夢の鉄道の中でなしに、ほんとうの世界の火やはげしい波の中を、大股にどこま
  でもどこまでも歩いてゆかなければなりません。
  たとえ生まれ変わり、死にかわっても―
  
    音楽徐々に大きく。

私 あの人の残してくれた切符には、こう書かれています。
  NUN KOMENCIGI
  ここより始まる
  NUN KOMENCIGI
  ここより始まる

    わたしはそしてわたくしは「私」として立ちつづける。
    音楽続き― 

                                       (終)


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